江戸時代というと、どうしても江戸の町ばかり注目されますが、多くの日本人は先祖が地方の百姓です。
そのため、農民の暮らしを知っておくことは先祖や故郷の歴史を理解する上で重要です。
私たちの先祖をたどると、多くは農民に行き着きます。
近代日本の基礎を築いたのは、力強くたくましく生きていた私たちの先祖なのです。
近年見直しが進み、江戸期の農民は、意外にも豊かであったと考えられるようになりました。
当時の財政は米本位制で、税金は米で納められるのが基本でした(大豆や貨幣で納めることもあります)。
それを年貢といい、収める割合は検地による査定(石盛)が基準でした。
大がかりな検地は豊臣秀吉が実施した太閤検地(天正の石直し、1582~1598)で、検地はその後もあったものの、17世紀頃の査定額がそのまま続き、以後あまり変わらなかったようです(検地の対象は田・畑・屋敷の土地でした)。
その一方で、農業技術が次第に進化し、生産力は着実に向上しました。
査定がほぼ元のままであったところへ収穫高が増加したので、(名目上の年貢率が増えたとしても)実質的な額は減ることになり、初期の「四公六民」(収穫高の4割が年貢、地方により税率は異なります)から、1割強~3割の年貢に減少しました。
江戸初期の社会秩序建設期は大変だったものの、やがて長期に渡って農民に余裕が生まれていきました。
百姓の所持石高 | 全体の割合 |
---|---|
5~7石 | 1割 |
1~2石の百姓 | 3割 |
0~1石の百姓 | 6割 |
米1石(お米150kg)が一人の人間が年間に食べる米の量といわれます。
それぞれのクラスの農民の暮らしを見てみましょう。
いわゆる富農(豪農)です。
かなり大きな農業経営をし、しばしば農外の営業、山林所有などとも結びつけ、家族労働力だけでなく、一定の雇用労働力を恒常的に雇い入れました。
いわゆる中農です。
通常的にはその農業収入だけで生活をようやく維持し、雇い雇われる関係が多少あっても、ほぼ相殺する程度の農民です。
年1石食べるのに現実にはその半分の米しか無く農民は空き地や庭先で雑穀を作り、ひえ・あわ・サツマイモ・栗などを食して生活していました。
いわゆる貧農~農村労働者です。
これらの小作人は水呑み百姓といって貧しい生活をしていましたが、自前の田畑を持っている百姓は江戸後期になると下っ端の武士より良い生活となりました。
日本各地に残された村の農民たちの記録をひもといてみると、懸命に働き、学び、余暇を楽しんだ彼らの生活が生き生きと浮かび上がってきます。
多くの百姓は、死んだ後に子孫に手厚く祀られることを生きがいに生きていた。
これらを糧に、子供にも家業・結婚・家産の重要性を伝えていきました。
これらは決して簡単ではありません。
化学肥料もトラクターもない時代、毎年一定の収穫を上げる得るのは我々の想像出来ないほど大変でした。
早朝暗いうちから起きて、夜暗くなるまで働いて疲れきって帰ってくる。
そのような生活を日々行っていました。
当時の人たちがこれらの労働に耐えられた理由は、次のような事を思い描いて生きてきたためです。
以上が多くの農民の生きがいでした。
なお、女性の場合も結婚してその家を盛り上げること、次男・三男は養子になり、もしくは分家して一家を盛りたてるというのが生きがいでした。
いちばん大きいのは鎮守様の春秋2回のお祭りでした。
その時は、操り人形の芝居を呼んだり自分たちで芝居をしたり、相撲をとったりして楽しみました。
この他、正月・盆・節句などの行事には餅をつき、酒を飲みみんなで一緒に踊ったりしました。
幕府や藩では、農民が遊びすぎて耕作を怠け、年貢がとれなくなることを心配して、抑え付けようとしました。
交通が開けてくると農民も、神社や寺にお参りしたり名所を見て歩くようになりことに伊勢神宮にお参りすることを一生の願いとしていました。
しかし農民の多くは、そのお金がないので、掛金を蓄え代表者がお参りに出かけました。
美人画のモデルは吉原などの遊女です。
彼女たちの華やかな装いは女性たちの憧れで、髪型や飾りなどを競って真似したようです。
逆にいくら美人でも町娘を浮世絵に描く、現代の読者モデルのようなことは幕府が風俗の乱れを気にして禁止していました。
江戸時代に入ると一つの場所に留まり、村を中心に生活力を上げる工夫を重ねていたのです。
農作物の品種改良や肥料の改善にも取り組み、収穫高が増えた結果、生活にもゆとりができました。
商いの場では読み書きや計算が必要なことから、村に寺子屋を作り、子どもたちに教育を施しました。
このため江戸時代後期には、読み書きのできる農民の数は非常に多かったといいます。
余暇には書物に親しみ、俳句や生け花を楽しむ人も出てきました。
特に俳句は人気で、小林一茶などの著名な俳人も、頻繁に地方の村に滞在しては皆に俳句を教えています。
一茶らからすれば、農民は文化的理解者であると同時に金銭援助をしてくれる大事な後援者だったのです。
農民たちもまた、江戸に出かけては最新ファッションや流行、歌舞伎などの文化を堪能するようになりました。
そればかりか、村の名所を記したガイド本を作って江戸で売るなど、情報発信を行っていたという記録も残っています。
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