明治時代になると近代的な戸籍法ができました。
全国民の居住地、氏名、家族構成、生没年などがほぼ明らかになります。
この時代は、出版物も豊富で、新聞などマスコミも発達していますから、さまざまな資料が現存しています。
ただし、気をつけなければならないのがプライバシーの問題です。
この時代の調査は現存している人たちにとって、かなり近い時代の調査になりますので、プライバシー問題が深刻になってきます。
安定した治世の時代になり、社会に秩序がもたらされました。
この時代の秩序とは「家制度」を基とした社会体制です。
仕官するのに、家系図の提出が義務付けられるようになります。
現存しているかどうかは別にして、武家であれば家系図を一度は作成しているはずです。
また、幕府による管理体制も強化しており、各藩においても所属武士の管理を徹底していました。
分限帳などに体表されるように、所属武士の名簿の類もさかんに作られています。
寛永年間と寛政年間の二度にわたり、幕府が大名と幕臣旗本の名簿を全国規模で作成した「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」という文書が現存しています。
さらに、江戸中期になると庶民文化も盛んになってきます。
もともとは武士の文化であった家系図も庶民の間に広がりました。
また、壇家寺を持ったり、墓を建てたりという風習も庶民に広がっています。
また印刷の技術も発達し、出版物も盛んに作られました。
中世以降に遡れるのは支配階級などの特殊な家系だけですが、資料さえ残っていれば庶民でもこの時代までなら調査可能です。
参考 武士の調査方法・分限帳
この時代は武家社会です。
地方豪族による合従連衡が始まり、日本が国家として成り立っていく過程です。
このころになると、出自の良し悪しが武家にとっての重要事項となり、家系図づくりが盛んに行われるようになります。
現代に残っている家系図の類は、戦国時代の先祖の武功あたりから始まるものが多いのです。
それまでの公家社会から、軍人である武家が支配権を握るようになりました。
実力本位ではありながら、いざ支配階級に加わると、それなりの「家柄」という格が必要となります。
この結果、家柄を装うためにニセ系図の類も登場するようになります。
また、乱世の世であるだけに、文書類も焼失や紛失が多く、資料はあまり残っていません。
参考 ニセ系図とは何か?
この時代は公家社会です。力をつけてきた氏族が地域を平定し、日本全土に共通した文化や言語がひろがりました。
全国民の戸籍「庚午年籍」が作成されたのが670年で、支配が庶民にまで広がっていることの表れです。
文字も普及し、役人の名前や当時の事件などの調査も可能となってきます。
「群書類従」という文書があり、これは2000年前からの諸家系図を網羅したものです。
主には、天皇家他、名家・名族の家系を表したものです。
家系調査としては、この時代の先祖まで遡ることが究極の目標になります。
この時代は、庶民の苗字が取り上げられる前のことで、身分制度もありません。
名田と呼ばれる土地の支配制度が始まり、土地の名を苗字として冠する習慣もこのころ始まりました。
飛鳥時代になると国家体勢が整い、文字も使用され、若干の資料類も出てきます。
しかし、文章が残っているのは天皇家などごく限られた支配層だけで稀少です。
そもそも、文書といっても古事記や日本書紀などで、この時代のことは想像するしか術がありません。
従来の家系調査では、天皇家まで行きつくことが究極の目標でした。
家系研究の世界では、清和源氏・桓武平氏に人気があります。
資料類の残っていない先史時代の調査は不可能です。
実は一つだけ方法がないではありません。人の遺伝子を解析する方法です。
もちろん名前などは分かりませんし、暮らしぶりをうかがい知ることも不可能です。
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