系図には「不明」な点が必ず出てきます。
これを埋めたいのが心情で、推論が入ることもあります。
ニセ系図が作られてしまう背景には主に2種類あります。
前者は家系図作りが分からない先代がいい加減に作ってしまい、それが代々伝わっているものです。
後者は「お金は出すので源氏と繋いで欲しい」という依頼で繋いでしまったものです。
インターネットで検索すると、趣味で家系図調査をしている人を見かけますが、次のような人がいます。
現在、日本の名字は30万種類あると言われています。
確かに、古代の職業がそのまま現在の名字まで繋がっている人もいます。
ですが大多数の名字は、土地名を根拠としています。
土地名が先にあり、次のようなケースが大半です。
ニセであるかどうかを判断するのは、相当専門的な知識を必要とします。
参考 名字の由来は何なのか?
とある一族に伝わる家系図を閲覧させて頂いたことがあります。
大切な家宝として物置から出して頂きました。
平家を始祖とした3.5m 程度の家系図でした。記載されている人物名も300人以上です。
ですが、最初の部分だけ確認しても現在伝わっている平家一族の家系図とは異なっています。
江戸時代の人物名に至っては「盛」の文字が続いているが名字が異なる奇妙な家系図となっていました。
当時は、武士として仕官するときに、家系図を殿様に提出しなければならない決まりでした。
ですが、家系の善し悪しによって禄高や出世が決まったので、当然ながら脚色しているケースもあります。
このため、江戸時代には多くの家系図作成業者がいました。
もちろんニセ系図作りで生業を立てるものもいました。代表的な人物を紹介します。
参考 武士の調査方法・分限帳
「先哲叢談」に次のような記載があります。
江戸時代初期の系図作家で盲人に「多々良玄信」がいました。
あるとき玄信は「二山伯養」という儒者を訪ねました。
伯養は「私の妻は垂水(たるみ)氏。先祖は伊勢の国司に仕えていたというが真相が分からない。ご存知ですか?」と玄信に質問しました。
玄信は「それは垂水広信とことでしょう。広信は河内守を称し、はじめ伊勢の国司に仕えたが、のち後醍醐天皇に仕え、諫奏(かんそう:天皇・主君に忠言を申し上げること)が入れられず身を退いた。程伊川の学を奉じ『嘉文乱記』65巻があります。それらの経緯は『長済集』に載っています、一部読んでお聞かせしましょう」と答えました。
玄信はスラスラと読み上げたため、伯養は驚きました。
喜んだ伯養は早速、友人の藤井懶斎(ふじい らんさい:1628~1709)に報告して、その著「国朝諫諍録」に収録させました。
ところが「嘉文乱記」「長済集」などの本は存在しませんでした。
この話は、まったく口からのでまかせで、玄信は、この話だけでなく、次々にニセ系図を捏造して金を得て生活をしました。
名も佐々木鑑真その他いくつもその場で改めました。
沢田源内の大著に「大系図(30巻)」があります。
「尊卑分脈」をタネ本にして、自家のところを佐々木系図に結びつけました。
このニセ系図を持って故郷近江から江戸にあらわれ、水戸家に仕えようとしたが、バレて近江に逃げ帰りました。
そこで名を変え、ニセ系図作りをして世を過ごしました。
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