江戸時代までは養老律令の「喪葬令」によって、平民は墓を造ることが禁じられていました。
※ 廃止法令は特に出されず、養老律令は形式的には明治維新期まで存続していました。
第二十六 喪葬令 全17条 10 三位以上条
三位以上、及び、別祖(=分立した氏の始祖)・氏宗〔ししゅう〕(=氏の長)については、いずれも墓を営むことができる。
それ以外はしてはならない。
墓を営むことができる場合でも、大蔵〔だいぞう〕(=火葬・散骨)したいと願ったならば許可すること。
そのため、百姓(農民)や町人など一般庶民は、川辺・海岸・山の中に埋葬されていました。
よほどの権力者か支配階級、財力のあるものでなければ、墓石を建てることはありません。
ただし、堺の商人達は、財力に物を言わせ寺院に多額の布施を贈り、院号、居士号をつけてもらい、大きな墓の建立を始めました。
そこで、11代将軍徳川家斉は、寺社奉行松平信順、堀親王らに命じて百姓・町人の院号、居士号使用の禁止と、百姓町人の墓石の大きさを台石を含めて高さ4尺(約1m20cm)に制限しました。
これが天保2年(1831年)4月に施行された「墓石制限令」であり、ここから墓地の始まりとなります。
※ ただし、目の届かない所では大きな墓が次々と建立されていました。
墓の表記は「個人墓」→「夫婦墓」→「先祖代々之墓」に推移していきました。
明治17年以降は「先祖代々之墓」が普及していくようになってきました。
墓石に関する関連記事
執筆中
執筆中
明治時代初期の先祖までは..
「除籍謄本」を遡れるだけ..
現地調査は、文献や古文書の..
明治時代以前の調査は、個人に..
江戸時代以前の調査は、個人に..